「あれ、」

 虫の声が聞こえなくなって、そのかわりに雨の音がしていた。それに気付いて読んでいた本から目をはなす。顔を上げると目線の先には時計の針。それはもう頂上の十二を過ぎていて、昨日が終わったことを告げていた。そろそろ寝なくては、と思いながら本を閉じる。
 ふと、かしゃんと金属が地面に擦れる音が雨の音に混じって微かに聞こえた。聞いたことのある音。あの人が来ている音。
 私は玄関まで行くと、そっと扉を開けた。

「総悟さ……」

 がしゃん。
 扉の前にいた彼の手から刀が滑り落ちて、両腕が私を抱きしめた。むわ、とした夏の雨のにおいに混じって、鉄の――人の血のにおいがした。くらくらとする。

 ああ、この人はまた人を斬ってきたのだろう。

 人を斬ってきた日の彼は決まって弱くなる。全身を紅に染めて、人を斬った刀を握り締めて、彼は私の前に現れる。いつもの自由奔放に笑う彼はそこにはいなくて、いるのはただひとりの弱い人間だった。

「……ごめん…」

 ちょっくら行ってきまさァ、なんて言っていつものように笑って出かけていった彼は、雨の中私を抱きしめてただ謝った。私は彼の背中に腕を回してそっと撫でる。ぬる、と滑るのは誰かの血のせいだろうか。華奢な彼のからだはいつもよりもっと小さく感じて、なぜだか消えてしまいそうな不安に駆られた。

「ごめん……」
「……うん、」
「ごめん、ごめんなさい……」
「うん……」

 うなされるように謝り続ける彼の背中をあやすように頷きながら撫で続ける。

 戦場では恐れられているという彼は、本当は誰よりも優しい。人を斬るのは彼の仕事のひとつで、仕方のないことで、やらなくてはいけないことだけれど、きっと、口には出さないけれど不安や後悔でいっぱいなのだろう。

「総悟さん、」

 もしかしたら、彼がしていることは間違いなのかもしれない。彼に斬り殺された人にも愛しい誰かがいて、その人は今悲しんでいるかもしれない。
 それでも、私はいつも思うのだ。

「生きて帰ってきてくれて、ありがとう」

 彼ははっとしたように顔を上げて、雨と血でぐしゃぐしゃな顔で微笑んだ。