宝生のお家に来て数日。いろいろと大変なことはあるけれど、大分慣れた。自分のことだけれど、順応が早いと思う。けれど、今日はどうも眠れない。昼間は学校で普通に働いていたから、疲れているはずなのだけれど。

私はベッドに沈んだ体を起こし、縁に腰掛けた。大きな窓の閉められたカーテンの隙間から月明かりが漏れている。そういえば、今日は帰り道に満月を見たっけ、とか思いながら、ぼんやりとカーテンの隙間を眺めた。青白い光が妙に淋しい。私はひとつため息をつくと、窓から目を離し扉の方を見た。
なんとなく、扉の向こうに桜沢さんが居る気がした。立ち上がって、扉を開けるとそこには桜沢さんの姿かあった。自分の勘もたまには当てになるもんだと思いつつ声をかけた。




「桜沢さん、」

さま。どうかなさいましたか?」

「あ、いえ、その…眠れなくて。」




眠れないのは本当だ。さすがに桜沢さんが廊下に居るような気がして顔を出したとは言えないけれど。




「そうですか。何か温かいものをお持ちしますか?」

「あ、いいえ、そこまでは。…あの、」

「はい、」




どうも今日は眠れそうにない。迷惑なのはわかっているけれど、少しお願いをすることにした。




「よかったら、少しの間…話し相手になってもらえないかなあと…」




そう言うと、桜沢さんは少し驚いたように私を見て、それからすぐにやわらかく微笑んだ。




「ええ、私で宜しければ。ただ廊下ですと回りに響いてしまいますのでお部屋にお邪魔することになりますが宜しいですか?」

「はい、お借りしている部屋ですし…」




どうぞ、と扉を開けると、桜沢さんは有難うございますと言って綺麗に笑った。私は扉を閉めると電気をつけようとスイッチを探した。それを桜沢さんにやんわりと止められる。私は不思議に思って桜沢さんを見た。




「明るくしてしまっては余計に目が冴えてしまいます。それに今夜は満月ですからカーテンを開ければ十分ですよ」




桜沢さんはそう言うと、カーテンを開けた。レールを滑る音と同時に月明かりが部屋に流れ込んだ。さっきひとりで見たのと同じ、青白い光、けれどなぜか淋しさは感じられなかった。ひとりじゃないと、こんなに見え方が違うものなのだろうか。私はベッドまで移動すると縁に腰掛けた。




「桜沢さんも座りませんか?」

「有難うございます。…では、お隣失礼致します。」




きい、とベッドのスプリングが軽く音を立てた。桜沢さんはカーテンだけではなく窓も開けてくれたらしく、夜の風がレースのカーテンを揺らしていた。




さまは明日もお仕事ですか?」

「そうですね。」

「お仕事は楽しいですか?」

「はい!大変なこともありますけど、皆良い子ですし…」




本当は桔梗先生が居なくなってしまって淋しいし、大変だ。けれどそんなことばかり言って泣いてもいられない。ともゑくんも、菫くんも、綾芽くんも、葵理事も、桔梗先生も、今隣に居る桜沢さんも、きっと大変なのだから。




「そうですか…」




どうも淋しさが顔に出てしまったらしい。桜沢さんは少しだけつらそうな顔をして、この話を終わらせてくれた。私が話し相手になって欲しいとわがままを言ったのに、なんだか申し訳なくなった。




「明日もお仕事ならお早いでしょう?」




黙っている私に、桜沢さんは気遣うようにそう話を振ってくれた。いつのまにかうつむいていた顔を上げて桜沢さんの顔を見ると、やわらかく微笑んでくれた。優しい人だなあと思う。




「そろそろ横になられてはいかがですか?」

「あ、はい、そうですね…」




これ以上桜沢さんを付き合わせるわけにもいかない。そう思ってベッドに足を上げた。桜沢さんは立ち上がって窓とカーテンを閉めてくれた。




「ではさま―――」

「あの、桜沢さん、」




上半身だけ起こして、扉の前に立つ桜沢さんを呼び止めた。桜沢さんは小さくはい、と返事をして私の言葉を待ってくれた。




「今日は有難うございました。付き合ってくれて。」

「いえ、私もお話できてよかったと思っておりますので。」




薄暗い部屋の中で桜沢さんの顔は見えなかったけれど、やわらかい声はとても優しくて心地よかった。




「…さまさえよろしければ、」




優しい声が、また闇に響く。




「またいろいろとお話させてください」




まさかそんなことを言われるなんて思ってもいなかった。驚いて、一瞬だけ固まる。けれど、素直に嬉しかったから、素直に答えることにした。




「はい、ぜひ。」




微笑んでいたのは私だけではないと思いたい。











「では、おやすみなさい。」

「はい、おやすみなさい。」




ぱたん、と小さな音を立てて扉が閉まる。私はごそごそと布団にもぐりこんだ。
今度は、心地良い眠りにつけそうだ。