佐伯くんの部屋に誘われた。珊瑚礁へはバイトでよく来るけど、部屋を訪れるなんてもちろん初めてだ。

「素敵な部屋だね」
「だろ?まあとりあえず座って適当にその辺見てろよ、俺なんか飲み物取ってくる」

 そう言って佐伯くんが部屋を出る。扉の閉まる音がして、部屋は静かな空間になった。開けられた窓から微かに波の音が聞こえて心地良い。

(…そういえば、ここ最近まともに寝てないな)

 部屋に置かれたテーブルに腕にをのせた。そこに頭を預けると、波の音に誘われるように眠気がやってくる。
 窓から初夏の風が入り込んで髪を撫でた。



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 アイスコーヒーを持って部屋に戻る。いつもの開け慣れた扉を開くと、部屋に招いた彼女はテーブルに頭を預けて眠っていた。思わずアイスコーヒーを手に持ったまま固まる。動きと共に固まってしまった頭を無理やり動かして、状況を理解しようとした。

(……そういえば最近仕事中も疲れてそうだったしな…)

 寝ているのを起こすのも悪いと思って、扉を静かに閉めて、アイスコーヒーをあいている棚の上に置いた。そっと彼女に近づいて、向かい側に座った。彼女の寝顔に目が行く。



 まつげ、長いんだな
 肌綺麗じゃん

 ……唇、柔らかそうだ


(なに考えてるんだよ俺)


 触れたらどうなるだろうとか、考えなくてもわかるだろ?
 この距離が、保てなくなるんだ。



 そう自分に言い聞かせても、目は正直に彼女の唇を見つめていた。
 軽く閉じられた、桜色の、唇。

 気がつくと、吸い寄せられるようにゆっくりと近づいていた。



 彼女の長いまつげが揺れた。



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「…ん……?」

 まだ覚めきっていない頭。目を開けると、自分の部屋…じゃない。そこで初めて自分が佐伯くんの部屋で眠ってしまったことに気がついた。

「ごっ、ごめん!私寝て――……佐伯くん、どうかした?」

 がばっと起き上がると、佐伯くんは何か恐ろしいものでも見たのかのように額に汗を流して、ものすごい後退りをしていた。

「べべべ別になんでも…!」

 佐伯くんはそう言って首をぶんぶん横に振った。

「…?そう?」
「あ、ああ!それよりコーヒー!アイスコーヒー淹れてやったから!」
「そっか、ありがとう」

棚の上に置かれていた、少し汗をかいたアイスコーヒーのグラスを手渡される。まだ氷が溶けきっていないから、どうやら寝ていたのは短い間だったらしいと少しほっとしながら一口飲む。ふわとコーヒーのいい香りが広がった。やっぱり珊瑚礁のコーヒーは美味しい。

「…ごめんね、寝ちゃって」
「…いや、まあ、お前最近疲れてそうだったし…とりあえず今日は帰ったら早く寝ろよ」
「うん、ごめんね」

 だから別に謝ることないだろ、と言われてしまって、でもその言葉にまたつい謝りそうになったから、落ち着くためにまたコーヒーを飲んだ。カラン、と氷とグラスがぶつかって音を立てる。

「…お前さ、」
「うん?」

 目線を佐伯くんに移すと、佐伯くんは真剣な顔をしてわたしを見ていた。思わずどきりとする。

「俺以外の奴の前で無防備に寝たりすんなよ」

 何か言おうとしたけれど、何も言えなかった。
 部屋に広がる沈黙。破ったのは、佐伯くんだった。

「コーヒー淹れなおしてくる」
「あ、うん。いってらっしゃい」

 佐伯くんはそれだけ言うと、逃げるように部屋を出ていってしまった。