「若王子先生、」
「やあ、君でしたか。いらっしゃい」

 化学準備室の扉を開けるといつものように先生の笑顔とコーヒーの香りが出迎えてくれた。

 ここ最近、わたしは毎日のようにここに来ている。来てはいるものの特に用があるわけでもなく、ただ先生と話をするだけだ。先生の家の猫がどうしたとか、今面白そうな映画がやっているだとか、今日は天気がいいとか、それくらいの本当にたわいのない話。

 今日も先生が出してくれた特製・ビーカーコーヒーを飲みながらいつものようにたわいない話を続けていた。話の最中、わたしはふと気になっていたことを思い出して、そういえば、と口を開いた。


「先生、この間のことなんですけど」
「この間?」

 先生は何のことかわからなかったらしくビーカーに入ったコーヒーから口を離して首を傾げる。わたしはコーヒーを机の上に置いた。

「男はみんな狼なんだって言ってましたよね」
「ああ…言いましたね。そうです、男はみんな狼です」

 先生はわたしと同じようにコーヒーを机に置いて、困ったように笑いながらそう返す。この間――先生と出掛けた帰りにこの話をしてくれたときも、先生はこんな顔をしていたな、とふと思い出した。

「じゃあ、先生も狼なんですか?」

 その言葉に先生はもともと大きめな目をもっとまん丸にしてわたしを見て、それから、ふ、と笑った。

「先生も、狼です」

 そう聞こえたかと思うと、視界がぐるんと回転した。視線の先には先生。その後ろには蛍光灯のならんだ天井が見えた。背中に硬い机の感触。

 ふわり。柔らかなものが額に落ちた。
 それは先生の唇で、それだと理解するまで時間がかかった。理解すると同時に頬がかあっと熱くなる。心臓がばくばくいう音がやけに響いて、外から聞こえていた運動部の声が消えた。

「……僕も、狼ですよ。さん」

 そんな声と同時に、最終下校時刻を知らせるチャイムが鳴った。

「だから、あまり先生を煽らないでください」

 先生はそう言ってまた困ったように笑った。それからぱっと表情が切り替わって、まだ驚いてまばたきしか出来ずにいるわたしの腕をよいしょ、と引っ張った。天井から壁へと視線が戻る。

「さ、チャイムが鳴ったから帰ろう。先生まだやることがあるので今日は送っていけないんです。気をつけて帰ってくださいね」

 窓から夕陽がさしていた。いつの間にか外からの声は本当に聞こえなくなっている。先生はいつものように柔らかい笑顔でわたしを廊下まで見送ってくれた。

「さようなら、さん」
「はい、さようなら先生」

 手を振る先生に軽く頭を下げて、背を向けて歩き出す。


 先生からの「さようなら」が今日はやけに寂しかった。